夢と現実
 
増村保造監督、若尾文子主演の『青空娘』(1957)という作品をぼくが好きなのも、ぼくの映画体験のはじまりにあったもの、そこで引きつけられた要素が、濃厚にあるからです。そういうことが、『岡山の娘』を作りながらわかってきた。
『青空娘』のパロディを入れたいというのは早くからで、初めは啓介を物まね上手ということにして、彼に青空娘をやってもらおうと思ったりした。撮影に入って、西脇さんを見ていたら、ぜったい若いときの若尾文子をやれるとピーンと来た。なんでそんなのやるのと呆れられたかもしれないけど、断固としてやりました。メイクの木村比呂路さんの功績大で、西脇さんもよくて、スタッフ全員から拍手がわきましたね。
 
世の中にはロリータ趣味というものがあるけれど、ぼくの場合は、そういうのではなく、告白すると、少年がお姉さん的存在にあこがれているというのが、いつまでも残った。映画がぼくをそういうふうにしたと言ってもいい。そこからすると、この作品で、ぼくは、信三やバルカンや啓介でもあるけれど、それ以上に三原真君のやった杉太だったかのな。中学生のぼくが迷いながらあちこち歩いてここまで来た。そう思えてきます。
 
『青空娘』が、ぼくがいいと思う、若い女性が中心にいる映画の典型だとすると、それを悪夢的にひっくり返したのが、インターミッションで使ったキャシー・アッカーの小説『血みどろ臓物ハイスクール』です。これも木村比呂路さんがなかなかの仕事をしてくれたけど、西脇さん、家ノ上さん、石原さん、三人とも、しっかりと声を出している。わたしたちはアイドルじゃない、天使じゃないと叫んで、寝ている観客をたたき起こしてもらおうという狙い。その一方で、やはりぼくの好きな、美空ひばり・江利チエミ・雪村いずみの三人娘映画とかを思い出している。
ぼくとしては、『侵入し、通過してゆく』という詩集の次の仕事でもあるわけで、そこでもやった引用・言及・参照をおそれずに持ち込んでいる。詩があり、盛ちゃんの絵もある。トロツキーも出した。そして、ジム・トムプスンとアゴタ・クリストフの名前は智子が「人物紹介」で触れていますが、言ってしまうと、ほかにG・ガルシア=マルケス、マルグリット・デユラス、ジル・ドゥルーズ、フィリップ・ガレル、雨宮処凛などからヒントを得ている箇所があります。詩集のときほど、あがいてそうしたという感じにはなってない。希望的に、そう言わせてください。
 
ぼくが夢見たり考えたりしてきたのだとしても、その夢や考えが、現実に、つまり具体的に生きている人間に出会わなければ、映画は成り立たない。その意味でも、西脇さん、家ノ上さん、石原さんの三人娘をはじめとして、何人ものすてきな岡山の娘たちに出会えたことがすごい。みなさんに、啓介のように「よかった。きみに会えて」と言いたいです。
娘たちだけではないですね。
この映画に関わったみなさんに「一緒にやれてよかった」と言いたいです。