2008.10.6〜10.12.
10月6日(月)
宮崎誉子の「子供だヨ! 全員集合」という短篇に登場する
中野君という小6の男の子のことが、頭から離れない。
〈中野君てホチキスの針のように手に刺さる子供だ〉。
彼は、この現実のきつさと競争するように
語り手である女性教師に生意気な言葉を連発しながら、
「……俺、生きててもいいのかな」と言ったりする。
たとえば、彼をちゃんと生きさせること。
文学でも映画でも、大事なのはそれができるかどうかだ。
10月7日(火)
「映像文化論入門」という授業の第一回。
ロベルト・ロッセリーニの『ドイツ零年』(1948)をとりあげる。
主人公の男の子エドムントは自殺する。
自分の生きる世界の恐ろしさを知ってしまったからか。
朝の1時限目にこれをやった。
2時限目の「映像論」は、フェリーニの『道』。
エドムントやジェルソミーナの生きられなかった世界。
わたしたちはそれを生きているのだと思った。
午後の授業のあいだも、それを思った。
そんな一日のしめくくりに
富士見通りのビア・レストラン「ラグー」へ。
壁に『岡山の娘』のポスターを貼ってもらう。
10月8日(水)
岡山に住む友人、世良利和の『沖縄映画大全』が届く。
沖縄に少しでも関係のある映画のすべてを知ろうとしている。
映画に関心にある人間ならぜったい必読の、ものすごい本である。
版元は沖縄の「ボーダーインク」。定価2100円(税込)と破格の安さだ。
授業の準備のために、増村保造『妻は告白する』(1961)をDVDで見る。
特典として付いている、ヒロイン彩子を演じた若尾文子の話がおもしろい。
撮影初日にラストを撮ったことはよく知られているが、
若尾文子が川口浩に「一年に一回でも会ってくれ」と迫るところ、
若尾文子の考えてきたシバイ(演技)と
テンポを速くする増村案のシバイの二通りが撮られ、
実際に使われたのは若尾案の方。
ほとんど全篇、セットで撮影。
山の岩壁は30メートルの高さのセットが作られ、
その30メートルの高さのところでシバイをした。
裁判所のシーンは、「中抜き」で、違う日のシーンの
同じアングルのカットを、若尾文子が衣装を変えるだけで、つづけて撮ったが、
〈演技の計算ができていたので、不安はなかった〉。
この『妻は告白する』のすばらしさを語る
山川方夫の「増村保造氏の個性とエロティシズム」(1962)。
〈僕たちはそこに呼吸のつまるほどなまなましく、美しい一人の女を見た〉。
10月9日(木)
夜、「萬笑」で、営業時間後にマツタケごはんと秋刀魚をごちそうになる。
満ち足りた気分で旭通りに出ると、隣に住む藤原さんに声をかけられた。
藤原さんちでも(とくに奥さんが)このブログを見ていると言われ、
恥ずかしい気がしたが、
いっそのこと、藤原さんに会ったことも書こうと思った。で、書きました。
10月10日(金)
『岡山の娘』の新しいチラシ、できあがる。
11人の方による『岡山の娘』へのコメントを載せて、
オールナイトの情報も詳しく入れた二つ折りである。
ポレポレ東中野に一万枚。うちにも一万枚。
これをどうさばくのか。
わが家の「戦場化」はさらに進行する。
チラシ配布に協力していただける方は、どうぞご連絡ください。
きょうは、結婚記念日。26回目の。
10月11日(土)
午後3時から「詩のワークショップ」第2回。
ゲスト、財部鳥子さん。
エッセイ集の帯にあるとおりの、〈きらめきとイロニー〉の人である。
新しい詩集『胡桃を割る人』から作品を読んでもらった。
たのしく、快調なテンポで、あっという間に2時間がすぎた。
10月12日(日)
秋のつめたい風が吹いている。
〈あの葉っぱたち、風に当たり、子供っぽい、激しい恐れにとらえられながら震えている。
無垢にして新鮮な葉っぱは、まだ生きてゆこうとしているのだ。〉
マルグリット・デュラスの短篇「エダ、または木の葉」。
エダ、もうじき死ぬ。
そのエダをおいて町に行く夫ジャン。
自分の、捨てられている、だが美しいものを始末できずに。
まさに呼吸のつまるほど美しく、苛酷な作品だ。
赤坂の「シナリオ」編集部で、
映画批評家塩田時敏さんからインタビューを受ける。
彼はプサン映画祭に行ってきたところ。その話を聞きながら、
『岡山の娘』の英語版も早く作らなくてはと思った。