2009.2.9〜2.16.
学年度末の大学の仕事、原稿、その他で、余裕のない日々がつづいています。
今回は、日録を休んで、少し前にあるところで受けた『岡山の娘』の音楽についての質問への回答を再現してみることにします。
〈『岡山の娘』の音楽はどう考えたのか?〉
ある段階で、デヴィッド・リンチのテレビシリーズ『ツイン・ピークス』みたいなのがいいと言ってたんです。ちょっとパクリっぽいテーマ曲が、いまおかヴァージョンじゃない方の予告篇に入っていますし、完成版の本篇でも、ラストの「スワニー川」の編曲にいくらかそういう感じがあります。
好きなヒップホップ的なのも、ショートヴァージョンでは使ったんだけど、いかにも打ち込みというのが、コンピューターで作りましたって感じになりすぎるんで、やめました。
前半、ナレーション、蝉の音、字幕、それに亡くなった母の歌で、リズムが生まれている。そこに音楽があるのはじゃまな気がして、入れていた音楽を抜いていきました。
音楽の吉田孝之さんも、わたしも、だんだん、音楽がいるのかなって疑いだしたんです。雰囲気が出ていないとかいうのをカバーするために音楽を使うのは、やめることにしました。
画面の意味をなぞって説明するんじゃなくて、対位法的にぶつかるもの。それが基本でしたが、残った音楽は、結果的に人物の気持ちをよく表現していると思います。
いまの時代を生きる気分+ポップ、という感じで、できたら街の音のなかにあるもの。そういうふうにもしたかったけれど、むずかしかったです。
〈お母さんの歌う「ククルククー・パロマ」は?〉
ウォン・カーウァイもペドロ・アルモドバルも使っている曲だけど、もともとこれは、いなくなった人間(実は、浮気な女)のかわりに鳩が飛んでくるというもので、死んだ女性の声で歌われるのによいと思いました。
ちょっと気がつかないかもしれないけれど、お母さんの好きだったこの歌を父と娘でハミングしたあとのつながりで、この曲を速いテンポの明るいアレンジにして、男たちの会話の場面にも流しています。
〈ラストの「スワニー川」はどうして?〉
川が出てくるから、川の曲。そう思いながら、版権のない曲をさがしていって、フォスターにぶつかりました。そして、川べりで少年がハーモニカを吹いている感じというアイディアを、妻が出してくれたんです。
ほんとうは「故郷の人々」という題だって、あとで教えられましたが、その題も『岡山の娘』に合っている気がします。
とにかく、日本の風景も見ようによってはスペインの風景に見える。それと同様に、岡山の旭川がアメリカの川になってしまうのも、おもしろいと思いました。
それは、みづきの物語がだれでもないだれかの物語へと、そして岡山の物語がどこでもない土地の物語へと、突き抜けていけばいいってことでもあります。
以上、「音楽についての質問に答える」でした。
最近、吉田孝之さんが、実際には使わなかった曲もふくめて、
彼が『岡山の娘』のために作った曲を集めたCDを送ってくれました。
ひとつのコンセプトにつらぬかれた、なかなかのアルバムになっています。
全部で19曲。25分。
どれもよく聴いた曲で、
『岡山の娘』の音を作っていったときの「苦労」も思い出されて、なつかしく、
心の奥の、大事なものをしまっているところに響いてくるという感じです。
もうひとつの『岡山の娘』、音楽作品としての『岡山の娘』が、
確かにそこにあると思いました。