詩について
 
もうひとつ、ぼくのような年代の人間が、若い世代の表現、とくに若い詩人たちの言葉をどう受けとめたらいいかということがありました。
三角みづ紀さんの詩集『カナシヤル』を読んだところで、その詩にぼくがどう接近するかというモティーフが、父親が娘に会いに来るという筋にかさなって、みづきという名前のヒロインが生まれたんです。
ついでに言うと、小川みづきの「小川」は、墓のシーンを小川孝雄プロデューサーの家の墓で撮ることから決まりました。
 
三角みづ紀さんは、大学で映像を学び、自分でも映画を作っている。
詩をぼくの映画に使いたいと言うとすぐに乗ってくれました。
結局、映画に出てくる三角さんの詩は、「ひかりの先」という短い作品と、「あまのがわ」の一部だけになったけれど、オーディションとリハーサルの段階から、彼女の作品をいろんなかたちで使いました。
みづきの、そして『岡山の娘』の、影の部分。矛盾した言い方になるかもしれないけど、そこに三角みづ紀さんの言葉の「光」がさしこんでいる。そうなってくれてるといい。
 
いちばん最初にキャスティングを決めたバルカン役の東井浩太郎さんの詩も出したくて、「このスープは正確に狂っている」という作品を書き下ろしてもらった。
それから、ぼく自身は、去年、機会があるたびに『岡山の娘』につながるモティーフで作品を書いたんですが、そのなかから、みづきが母親奈津子の残した靴をはいて外に出るという「その靴をはいて」と、奈津子が書いた詩として「窓」を使いました。
 
あと、編集作業になってから入れることにしたんだけど、北川透さんとディラン・トマスと鈴木志郎康さんの詩句が、字幕で出てくる。ぼくが学生時代から熱中して読んできた詩人たちです。北川さんは、映画のなかにも登場し、中原中也の詩の一節を読み、作品の核のひとつとなる、とても大事なことを語ってくれています。
 
『急にたどりついてしまう』(1995)のときは、途中から詩を使うことになった。今回は、最初から、ミュージカル作品に歌と踊りがあるように、詩のある映画にしようと思った。映画と詩。なぜこの二つをやるのか。
『急にたどりついてしまう』を作ったあと、この質問に悩まされました。
いまは、悩みません。