2008.9.29〜10.5.
9月29日(月)
前回の9月26日の『ウォンテッド』について、補足。
〈ベクマンベトフのロシアが半端にしか活かされていない〉は、
ロシア人を出しているのに、カザフスタン出身のベクマンベトフの
ロシアへの気持ちが見えてこない、ということでした。
NHK朝の連続ドラマ『瞳』が先週で終わって、今日から『だんだん』。
島根と京都が舞台。双子の女の子が別々に育っている。
わたしは、両親とも出雲出身なので、自分の血は「出雲人」だと思っている。
第一回を見ただけで、島根の場面にわたしのその「出雲人」が
はげしく抵抗した。もう見ないかもしれない。
『瞳』は、文句を言いながらも、
ヒップホップ+父と娘の物語が気になって、週に四回は見た。
それよりも何よりも、朝のたのしみということでいえば、実は
高橋美鈴アナウンサーが「おはよう日本」に出ていたころが懐かしい。
9月30日(火)
雨のなか、「萬笑」でラーメン+チャーシューごはんセットの昼食。
「奏」の常連で岡山県人の編集者ユウちゃんに会った。
そのあと、古本屋2軒とレコード屋1軒をまわる、つかのまの休日パターン。
古本3冊(ボルヘス、寺山修司、『映画監督術』)と、
マカオに行ったときの飛行機で聴いて気になっていた
ダフィーのCD『ロックフェリー』を買った。
ダフィーは、ウェールズの小さな村ネヴィンの生まれ。
60年代風ソウルと「ウェールズのダサいねーちゃん」のたまらない魅力。
わたしは新潟県の亀田というところに小4までいたが
(めんどうくさくて、欲張りで、申し訳ないが)、
出雲地方、朝鮮半島、ウェールズ、イベリア半島、バルカン半島などに
故郷的なものを感じる。つまりは、故郷のない人間なのだ。
10月1日(水)
「シナリオ」編集部に『岡山の娘』のシナリオを送る。
「シナリオ」にシナリオとインタビューを載せてもらえるとは、
ほっぺたをつねりたくなる。
オブリガード、ブラゴダラム、ムゴイ、だんだん!
10月2日(木)
夜8時ごろ、大学から戻り、谷保の「たちばな」で飲む。
帰宅後、『フィルム』(アレン・シュナイダー監督)を見る。
サミュエル・ベケット作、バスター・キートン主演。
1965年の、22分の作品。
見られることの恐怖。
自分を見ているのは、自分なのだ。
この老いたバスター・キートンに、
なんと『岡山の娘』の啓介がつながってくるのだが、
わたしたちは、見られている自分(見る自分)から逃れられない。
この世に映画が存在している以上、そうなのであり、
それが映画の存在する理由でもある。酔いがぶっとんだ。
金子遊さんから送ってもらったDVDで、このあとに
ゴダール/ゴランの『ジェーンへの手紙』(1972)も入っていた。
これも映画なのか。と考えているうちに、睡魔との闘いとなってしまった。
10月3日(金)
三軒茶屋中央劇場で、熊坂出監督の『パーク アンド ラブホテル』と
井口奈己監督の『人のセックスを笑うな』の二本立て。
前者は、エピソードが上っつらだけですんでいる気もしたが、
ラブホテルの屋上が解放区的な公園になっているというのは
なかなかのアイディア。いろんな手を考えているし、主演のリリイもよかった。
後者は、題名のどぎつさのわりには面白味のない物語を、
アクションの自然さ(を通りこしたおかしな感じ?)で
なんとかしようとしているのはわかったが、
長くなりすぎたし、横から覗き見的に撮りすぎている。
人物の見た目のショットを撮るのがいやなのだろうか。
東中野にまわり、「好日」のラーメンを食べたあと、
ポレポレで王兵監督の『鳳鳴――中国の記憶』。
老いた女性が政治に翻弄されたその苦難の人生について語るのを、
ほとんどずっと固定ショットでとらえている。
ものすごく力のある語りと存在感。
このカメラの前にしっかりとすわるために
彼女はここまで生き抜いたのだ、と思わされる。
『ジェーンへの手紙』とこれを見て、
苦しくなったときにやる手のヒントも受けとった気がする。
国立に戻って、「奏」でビールとタコのガリシア風。
10月6日(日)
自転車で、国立市中央図書館へ。
マルグリット・デユラス『戦争ノート』(田中倫郎訳)、
宮崎誉子『少女@ロボット』ほか5冊を借りる。
デュラスと宮崎誉子。
この二者を同時に読みたいのが、いまのわたしだ。
『戦争ノート』の訳者あとがきにエミリー・ディキンスンの名を見つけ、
「ああ、そうか、ディキンスンの詩のような場所に行きついて、
さらにその先を歩かなくてはならないんだ」
と、空から雨が落ちてくるなか、自転車をとばしながら思った。
夜は、フェリーニの『道』を見た。
ジェルソミーナ。魂、無垢、天使的存在。
ザンパノ。男、暴君的な体力、動物としての人間、悔恨。
イル・マットー。道化師、アーティスト。
それぞれの原型性。
妻のいちばん好きな映画で、もう何度見たかわからない。
ほとんど全カットをおぼえてしまった気がする。
男だったらドストエフスキーの『白痴』のムイシュキン。
女だったらこの『道』のジェルソミーナ。
究極のところ、わたしが映画で出会いたいのはこういう天使的存在なのだ。
そう思ってもいい。ザンパノのように天からの音楽にふるえて
夜の砂浜で泣きくずれてもいい。
でも、それでは終わらない。その先があるのだ。