母の死と父の帰還がもたらす混乱・を契機とする自分探し・とは無関連にリズムが刻まれる〈身体〉と〈世界〉・がもたらす許しゆえに、ある意味で荒唐無稽に肯定される「今・ここ」。主人公の振る舞いというよりも、福間監督の肯定の身振りが、観客に感染を惹起する。宮台真司/社会学者
素人に近い演技者たちの持っている存在感、オーラが映画によく活かされている。ゲンジツからずり落ちそうになっている主人公の姿を描きながら、全体に明るいのは、みづき演じる女性の弾力性のある心身に由来するのだろうか。心と身との統一を図ることができたとき、自分にめぐり合えるのだと思うが、遠い意志が、ただひとときの「わたし」というコマ、「自然」というコマを動かしているのが感じられる映画だとも思った。井坂洋子/詩人
詩と岡山、そこで放浪の父と娘は生きる力を回復する。鈴木志郎康/詩人・映画作家
自分と自分が一致するというのが人生のスタートラインだとしたら、見ている私もまた、いまだに生き惑っているのではないかと問いかけられた気がして、ハッとさせられる。切通理作/評論家
父の死後・母の帰還という物語が息子たちを捉えるように、母の死後・父の帰還という物語が娘たちを捉える。福間健二は、ひとりの娘のすばらしい現在形を描いた。瀬尾育生/詩人
これはわたしじゃない
わたしじゃないけれど
すべての娘の物語三角みづ紀/詩人
話し言葉が登場人物の口の中でころころと転がり、光り輝く軽快な詩的言語となる。そんな心躍るリズムを刻む日本映画はこれまで存在したことがなかった。加藤幹郎/映画批評家
『岡山の娘』は、まさしく歌う映画だ。ここに出てくる母を失った少女、孤児の青年は、どこにでもいる。いや、むしろ親のいる当たり前の若者誰もが彼らと同じからっぽのココロに喘いでいる今、この映画を慣れない砂利道を地図もなく踏み進むように最後まで辿り着くと、喘ぎがいつの間にかココロを晴らす深呼吸に変わっていることに気づくだろう。田中重幸/映画監督
世界がまるで悪質な映画のように我々の前に出現する今、
『岡山の娘』は、映画を信じる者に希望を与え、
人間と世界との絆を取り戻す試みである。
そんな映画に久し振りに出会えて、
すごくうれしい。原將人/映画監督
映像で書かれた詩である事が分かれば、見るのに理屈はいらない。
最後まで感覚で見ました。TVディレクター/小松原貢
明らかにその質感や分野の異なる手法・技法を意図的に混在させることによって、映画と夢と現実が何度も反転したり、単純な流れのなかではなんということのない台詞や映像が重要な意味を持つなどするところが印象的だった。岡山の町が魅力的に見えた。その他にもいろんなことを思った。やほほ。町田康/作家・ミュージシャン