2008.10.20〜10.26.

10月20日(月)
母(84歳)の弟(79歳)、つまり叔父さんが島根から上京。
『岡山の娘』のチラシを見せると、
「兄弟が力を合わせてやってるのがいいね」
やはり朝の連ドラの『だんだん』の出雲弁はおかしいという話。
そして、昔話。
わたしと弟が子どものころ、上京した叔父が新宿に連れていってくれた。
ミラノ座でディズニー映画『南海漂流』を見て、おすしをご馳走になった。
そのころの歌舞伎町の風景がよみがえってくる。

10月21日(火)
「映像文化論入門」は、ゴダールの初期短篇2本と『勝手にしやがれ』。
「映像論」は、ウェルズの『市民ケーン』から『上海から来た女』へ。
『上海から来た女』の終結部、鏡のシーンは、何度見ても圧倒される。
でも、若い娘たちのいきいきした姿をつかまえるゴダールのあとでは、
ウェルズの凝った縦構図の技法は、しつこすぎて空虚だと感じられるところも。

後期、火曜日は授業が四つ。
3時限目、「表象言語の諸問題」という授業。粕谷栄市さんの詩を読む。
5時限目は、英語の授業で、テクストはなんでもいいのだが、
いまは『楽しい映画文化史』。副題が「エディソンからスピルバーグまで」。
きょうは、「映画以前の映画」をたどって、ジャワの影絵芝居、
カメラ・オブスキュラ(暗箱)、マジックランタン(幻灯)などについて。

午後6時以降がアフタースクール。
MOVIX橋本で、アダム・シャンクマン監督『ヘアースプレー』を見る。
〈ハマる!ハジケる!ハチキレる!〉という惹句通りの楽しい作品。
アメリカ映画ならではの、さからえない「正義」で押し切っている。
会員なら500円で見れる「橋本音楽映画祭2008」という企画のなかの番組。
こういう企画をやれるMOVIX橋本は、わたしの知っているかぎり、
日本で最高のシネコンである。
『岡山の娘』をふくむインディーズ映画祭もやってほしい。

10月22日(水)
わたしたちの誕生の前にあるのは、快楽。
その前は無(死)。
その前は、前世。
というようなことを、
昨日の授業で読んだ粕谷さんの作品から考えているうちに、
24年前に体をわるくして、
大阪の霊術研究家井村宏次さんの治療を受けたことを思い出した。
鍼、灸、血抜き、漢方薬。気の療法のセット。
一回の治療が夜の12時ごろからはじまって朝方までつづくこともあったが、
「わいの治療は、メッセージとしてやっとるから」
と、お金は一銭もとらない。
しかし、口がわるいというか、手きびしい言葉がぽんぽんと飛び出した。
「詩を書いとるとか、大学の教師だからって、
自分をえらいと思っとったら、病気直らんよ」
といった調子だが、こういう言葉もメッセージなのだった。
また、わたしは、前世がチベットに修行に来たスコットランド人かなにかで、
そのときから頭がグチャグチャになっている、
というような冗談も言われた。
いや、冗談じゃなかったかもしれない。

10月23日(木)
授業、授業、会議、授業(中断して、緊急会議あり)、
さらに会議(来年度の時間割が決まった)のあとの
アフタースクールは、きょうも〈橋本音楽映画祭2008〉。
トッド・へインズ監督『アイム・ノット・ゼア』。
同僚で詩人の瀬尾育生さんの激賞した作品で、
女優ケイト・ブランシェットをふくむ六人のキャストがボブ・ディランを演じる。
これもあり、それもありと技法の自由自在のオンパレードで、
全部ノートに書き取っていつかパクってやろうと思ったが、
どこか焦点ボケのような気もした。
「いま」が足りないのだ。
しかし、クレジットロールの最後の最後で、
アンソニーの歌う「ノック・オン・ザ・へヴンズ・ドア」が流れた瞬間、
「いま」を感じた。
やっぱりすごい映画です。

「奏」に寄る。英文科時代の教え子、南谷君とカウンターの席でならぶ。
教室に来て「先週、どこまでやったけ?」と学生に聞く教師は最低である、
という彼の意見。学びました。
カメラマンの鈴木一博さんも来ていた。
ここには内容を書かないが、この夜の彼の言葉をわたしは一生忘れないだろう。

10月24日(金)
宮崎誉子「欠落」(「新潮」2007年9月号)を読む。120枚。
語り手は、派遣で、女性たちに囲まれてテレオペの見習いをする鳩山太一(ポッポちゃんと呼ばれたりする)。彼と、ひきこもるヤクマルとの、きれいじゃない友情の物語。
それだけじゃない内容をもつが、ラストは、
〈ヤクマルの汚い泣き顔を見てたら、期間限定で応援してやってもいいかなと思った。〉
人にやさしくすることが、その人を傷つけることと紙一重でつながっている。
そんな関係性をとらえて、けっして停滞しない。

来週の授業のために、
ルキノ・ヴィスコンティの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』を見る。
1942年の作品。画面が全部いい。
さらに『揺れる大地』(1948)を途中まで。これも映像がすごい。
ヴィスコンティの、この初期の二本を、なんとなくあまり意識しなくなっていた。
そのことを反省する。画期的な、すごい映画だったのだ。

10月25日(土)
国立市公民館の「詩のワークショップ」。第三回。
永瀬清子の仕事に焦点をあてる。
とくに『短章集』の、詩が自分にとってどういうものかを語った言葉。
理屈としてどうなのかなと思うところもあるが、
永瀬さんの言葉には、つよさ、はげしさ、かわいさがある。
きょうは、『空白期』の詩人高田昭子さんが特別参加。
最初にみんなでやった言葉遊びで、わたしの作った例。

ゆ ゆさぶるな
め 目が痛い
の ノーゲス、ドミニク
な なにもかもが
か かすんでいる
で 出口、物語からの

紹介できないのが残念だが、
受講者のみなさんの方がこれより面白いものをどんどん作った。
ワークショップのあと、「奏」から「利久」へのコース。酔いました。

10月26日(日)
「現代詩手帖」11月号。
原將人さんの『岡山の娘』論(「夢に母があらわれる迄」)が載っている。
ここで、どうして漢字の「迄」なのか。
漱石の『彼岸過迄』が彼の頭にあるからかな。

夜、「奏」で鈴木常吉ソロ・ライブ。
わたしは二回目だが、すっかりファンになった。
ヴォーカル、ギター、アコーディオンのどれにも、彼の音色が鮮明にある。
元セメントミキサーズ。文学+パンク。
日本には、ブコウスキーのかわりに、彼がいるのだ。
ライブのあと、飲みながら、常吉さんと話した。
詩人の石毛拓郎さん、映画作家の山?幹夫さんなど、共通の知人もいて、
接点がいろいろとあって、話が弾んだ。
山?監督の『プ』をはじめとして、彼は映画にも出ている。
「ピンク映画、どうですか?」と聞くと、
「出たいですよ」
いまおかくん(読んでいますか?)、鈴木常吉主演できっとすごい映画ができるよ。