2008.10.13〜10.19.

10月13日(月)
午後4時ごろ、原將人さん、アボガドを持って遊びに来る。
撮影した8ミリフィルムを現像に出すため柴崎のフジフィルムに行き、そのあと、
京王線で府中に出て、府中からバスで国立にやってきた。
その前に、新宿の紀伊国屋で吉本隆明の本をたくさん買ってきた
とテーブルに並べる。
吉本さんの『心的現象論』は映画の理論に使えるという。
そうだったかと驚く。
そして、ジル・ドゥルーズの話。出たばかりの『シネマ1』を
わたしはまだ読んでいないが、『シネマ1』『シネマ2』を
二人でしっかり読み抜こうと話す。哲学の本であると同時に、
哲学の限界を映画によって超えようとしている本であり、
実際に映画を作る者にこそ得るものがすごくある本なのである。
それから、夏目漱石の話。
彼は、とくに漱石の『こころ』をやりたいと言う。
午後7時すぎから、舞踏家の杉田丈作さんも来る。
『急にたどりついてしまう』に出演した彼は、原さんとは中学・高校が一緒。
東京の子たちだ。レッツ・ダンス!

10月14日(火)
1時限目、「映像文化論入門」は、ロッセリーニの二回目。
イングリッド・バーグマンとのコンビ第一作『ストロンボリ』(1950)を中心に。
2時限目、「映像論」は、先週やったフェリーニの『道』のラストを、
デ・シーカ『自転車泥棒』(1948)と
ロッセリーニ『ドイツ零年』(1948)のラストと比較したあとに、
強引にオーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941)に入っていった。
午後、(二日後になってわかる)大ポカをやっていた。

10月15日(水)
ウェールズの友人ノーマンから、
彼の編集した彼のパートナーのデボラ・ケイ・デイヴィスの短篇集が届く。
タイトルは、『grace, tamar and lazlo the beautiful』
詩集『things you think I don’t know』もそうだったが、
デボラの本は、タイトルと表紙(白黒写真を使った)からしてカッコいい。

10月16日(木)
授業と会議に追われた一日のあと、
午後6時半から、首都大学東京の学生劇団「時計」の公演『キステ』を見る。
脚本・演出は、わが表象分野の4年生、千葉咲紀子さん。
これは彼女の卒業制作。その演出ノートほかを評価の対象とする。
映画のセットに使いたくなるような立体的な装置を作って、
それを活かしている。
『岡山の娘』の美術の、たぶん10倍以上の労力とコスト。

10月17日(金)
夜8時から「奏」で、雑誌「キネマ旬報」のためのインタビュー。
聞き手の切通理作さん、編集長の明智惠子さんと
たのしい雰囲気で飲みながらいつまでも話し込む。
明智さんとは初対面だが、彼女のお母さんがわたしの詩を読んでくれていた
ということで、最初から乗りました。

10月18日(土)
大学院の授業の予習として、瀬尾育生さんの『鮎川信夫論』を読み直していたら、
映画の構想がひとつ忽然と湧きおこった。
戦前の満州を未来に移したSFで、
その「満州」では日本人と白人が差別されている。
『ブレードランナー』+ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』といった感じの
めちゃくちゃな混血言語が話され、
瀬尾育生を特別ゲストとする「荒地派」詩人グループの青春がそこにあって、
そしてタイトルはディラン・トマスの(田村隆一もまねして使った)『十月の詩』。
なぜか紅葉がその未来の旧満州をおおうのだ。
この構想を「タイトル、構想、予定」というファイルに書き込んだ。
夜9時半、「奏」に行く。
フミちゃん、こころちゃん、祐子ちゃんの学習院OGトリオに、
『岡山の娘』をどうぞよろしく、チラシ配ってね、とお願いする。

10月19日(日)
野口整体の活元運動というものが、わたしを支えている。
身も心も、それで大丈夫なのだが、その上に、
「飲んで、書いて、そして映画も」というハタ迷惑な生き方を
どんなダメージの嵐にも耐えるものにするため
(ジョークではない)、
ほかにもいろんなことをやっている。
このところ好きなのは「うしろ歩き」。
前歩きで普通に年をとってゆく時間を、
うしろ向きに歩いて(ちがう筋肉を使うことで)逆流させるのだ。
この数日、その「うしろ歩き」のコツをちょっと会得した気がしている。

夜、NECOチャンネルで萩生田宏治監督の『神童』を見る。
天才少女ピアニストの話。前に脚本(向井康介)も読んでいた。
才能ある人たちの仕事だとは思うが、
音楽がいちばん大事なファクターなのに、音楽・音声の使い方が甘い。
手塚理美の母親があまりにもいいところなしなのも、つらい。