1月17日(土)。今日のトークゲストは、映画評論家であり、映像作家としても活動している金子遊さん。初めて観たときから『岡山の娘』のファン(もう今日が5回目の鑑賞だそうです)だという金子さんからの質問に、監督が答えるというスタイルでトークショーははじまりました。

金子さんは『岡山の娘』について、50年後のヌーヴェルヴァーグを観るようだと言います。『岡山の娘』における、HDカメラによる撮影、すでに充分なほど文法化され、規格化された映画の形式に挑戦するかのような映像構成はとても斬新だ、と。また、ゴダールやトリュフォーといった、かつてのヌーヴェルヴーグの若い作家たちが仮に今映画を撮るとしたら、やはりこのような映画の創造に挑むのではないか、と。それを受けて福間監督は、映画の中で重要ないくつかのシーン(みづきがひとりで怒るシーンなど)は追撮によって得られた素材を用いている、といった制作現場の風景を語る。
それから金子さんが、現在の社会情勢と『岡山の娘』の関連にも言及して、「いま雇用問題などが本当に深刻化している。映画の中のみづきも死んだ母の借金を背負い、自己破産をして、大学をやめ、青果市場で働く。そんななかで「生きさせろだよ」というみづきの科白は真にせまって印象的だった」と話されると、監督も「いまはみづきのような状況が決して他人事じゃないところがある。この映画は社会派の映画でもなんでもないけれど、こういう深刻な情勢が『岡山の娘』を後押ししてくれてるようにも思う。」と答えました。

金子さんがもっとも『岡山の娘』について関心をひいたのは、やはりこの映画の根本的な構造として、映像と詩の双方が含まれるという点だとのこと。「最初は字幕スーパーのように表れる言葉や詩と、映像と、相互に補完し合っているように思ったけれど違う。ほんとうは詩と映像がせめぎ合って、スパークしてるんだと。」監督がこれまで繰り返し語ってきた、『岡山の娘』の構造的な意図――映像と言葉とを拮抗させたい――に論点が及ぶと、トークショーの終盤はまた『岡山の娘』のラディカルな部分に議論が集中。岡山のさまざまな娘たちへのインタビューから映画の「みづき」へとそのままつながっていく冒頭のシーンにおけるドキュメンタリーとフィクションの混淆や、唐突なインターミッション、劇中の『青空娘』のパロディといった部分を取り上げ、『岡山の娘』の映像世界が、映画文法の規格外のところで描こうとしている自由について、余すことなく意見が交わされました。

今日は、ほんとうに15分あまりとは思えないほど濃密に、『岡山の娘』の映画考察がなされたように思います。『岡山の娘』は時代遅れなまでに新しいのだと、また一つ映画の魅力が明らかになりました。
金子遊さん、本当にありがとうございました。

宣伝スタッフ・河野まりえ