疑わしきは被告人の利益に

2006年11月25日

裁判員制度の実施が迫り、法曹関係者もこの準備にいろいろな試みをしている。外部に向かっての広報活動も効果はともかくもかなりの費用が投下されている。裁判員制度導入には強い反対の姿勢を示していた検察庁がいまや一番熱心にその広報に取り組んでいるように思う。このまま裁判員制度が実施されれば検察官の主張が裁判員に伝わりにくく無罪判決が増えるという危機感があり、裁判員制度の意義を検察庁なりに国民の理解をえておきたいというのが本音であろう。rnrn法曹三者内部でもこの裁判員制度をどのように定着させ、実施していくかについてはいろいろと論議されていて、その意見の相違が訴訟手続きをめぐってもある。三者で全国的に同じ題材を使用して地裁本庁ごとに共同で模擬裁判をしながら、制度のあり方を検討し、裁判員制度が実施された場合の各役割をどのように果たすべきかをそれぞれが検討している。きょうは岡山に中国ブロックの弁護士が集まり、全国各地で実施されたこの裁判員裁判の模擬裁判の体験からどのように冒頭陳述をし、弁論はどうあるべきかを討議する会議が持たれた。そのなかで、興味深かったのは「疑わしきは被告人の利益に」という刑事訴訟の大原則をどのように裁判員に伝えるかについての意見交換であった。検察官は「合理的な疑いを入れない程度に」立証しなければならない立証責任を負っていて、その程度に至る立証がなければ被告人は無罪であるとするのが刑事訴訟法の大原則である。rnrnこの「合理的な疑いのない程度」という言葉は英米法で「beyond a reasonable doubt」の訳文であり、やはりそれはどの程度のことをいっているのかこの言葉だけでは意味不明である。「やったかもしれないかな、でもやっていないかも」言う程度では無罪とすべきであることはまちがいない。このことをうまく裁判員に説明する責任はまず裁判所が審理の始めにきちんと裁判員に説明しなければならないが、いままで誤りをし続けてきた裁判官があまり踏み込んで説明しようとしないし、どの程度説明するのか現段階では決まっていない。弁護人も適正な審理を確保するためにその役割を果たさなければならず、どの段階でどのように説明すべきかは裁判の手続きのなかで適正効果的な方法によってなされなければならない。いくつかの例が示され、討議がなされたが立場によって問題の捉え方に大きな違いがあることが興味深かった。ある弁護人は、「50パーセントや60パーセントの立証では、合理的な疑いを入れない程度の立証とは言えない。95パーセントまで立証できなければ有罪とすべきでない」との説明をするとすかさず検察官から異議がでたとのことである。あるいは私も分かりやすいと思ったのだが「白いキャンパスに黒色を塗っていき、ほとんど黒か灰色になったがその一部でも白いところが残っていればそれはまだ合理的な疑いをいれない立証がなされたとは言えない」とキャンバスを使っての説明はなんとなくイメージが理解でいる。しかし、検察官もうまく表現していた。ちょうどテレ朝系のテレビ番組アタック25のように例えば地球の絵を書いてあるパネルのうえの分割された25枚のパネルを一枚一枚外していけば半分空いたときにおいても地球の絵が隠されていることを確信できることがあり、これと同じで95パーセントの立証とか、一部でも白いところが残っているとかの比喩は間違いであると説明する。この説明もなるほどと思ってしまう。決して誤って有罪の判決がでることのないよう、疑わしきは被告人の利益にの原則が徹底されるようにならなければならない。rnrnいくらこのように制度についてあるべき手続きが論議されても、岡山での模擬裁判の評議においては裁判官が裁判員に対してそれはプロの判断と違うなどと自分の意見を強要するような言動があり、裁判員が自由に発言できなかったということがあったとのことである。裁判員制度は、まさにアマチュアがその人の感覚、目と言葉で評議されることに意義があり、担当する裁判官が裁判員の自由な発言をさえぎるようなことがあってはならない。裁判官それぞれが、この新しい制度に魂をいれていくという自覚が必要であり、そのような裁判官が担当するか否かが実は裁判員制度の成否の鍵を握っているのではないかと感じている。

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