既に勝っているんものだけしか勝てない

2007年9月30日

東京で,ゴミ弁連(たたかう住民とともにゴミ問題の解決をめざす100人の弁護士の連絡会)の勉強会があり,参加していた。集まった弁護士は15人程度であったろうか。廃棄物処理場建設問題などゴミ問題に関する事件を住民側で担当している弁護士の集まりである。住民運動の高まりのなか,岡山県の産廃処分場設置不許可をかちとり,さらに厚生省の県の不許可決定を維持するとの決定をとり,業者の県に対する不許可処分を争う裁判には住民として訴訟参加をして,最高裁の原告適格に関する画期的な決定をひきだしたいわゆる吉永町産廃処分場建設差し止め事件を担当することになったときからの参加である。全国の廃棄物処理場に関する事件のほとんどは住民側にゴミ弁連の弁護士が関わってきた。

安定型処分場においては裁判で争っても確実に止めることができる論理,法理は確立したと言える状況である。日弁連も政府の政策として安定型処分場は建設することを止めるべきであるとの意見書を最近出している。産業廃棄物処理場に関しても,最終的にはゴミ弁連の弁護士が関わったところはほぼ建設の差し止めが実現している。しかし,行政が設置する一般廃棄物処理場に関してはその危険性は産廃と変わらないのに勝つことは非常に難しいと言われている。

今日の討議で個性の強い二人の弁護士の意見の微妙な違いが表れていておもしろかった。一人はかつて東京都公害問題研究所の技術研究員として研究しながら司法試験に合格し弁護士となった理工系出身の梶山さんで,もう一人はかつて水俣病公害事件をてがけ,最近では諫早湾の埋め立て問題などにも関わっている馬奈木弁護士である。いずれの方もその分野では著名な方である。梶山弁護士は裁判官はいかに科学的思考方法ができてなく,行政のいうことは盲目的に信頼するが住民側の主張には一切耳を貸そうともしない習性があるとの指摘で,判決の論理矛盾を細かく指摘しながら話をされた。馬奈木さんは,まずは住民運動があって,その住民運動で勝っていけばその裁判では勝てるとの信念である。つまり住民運動で勝っている状況に持ち込んでいる場合のみしか裁判所は住民を勝たせようとしないということである。これももっともだと思った。それくらい行政事件では住民側が勝つのは難しいと言うことである。この点は梶山さんも裁判官の体質の問題として指摘されていた。弁護士は,こうした住民の運動のアドバイス,支援をしていくことの必要性を強調されていた。

廃棄物処理の問題は,結局はエネルギーをどう使うかの問題に帰着してくる。大量生産,大量消費,大量廃棄という循環をいつまで続けられるのだろうか。地球温暖化がクローズアップされた今年の夏であった。勉強会の会場では東京都がペットボトルをいままで資源ゴミ,埋め立てゴミとして扱ってきていたのが,今度は焼却ゴミとして扱うようになったとの新聞記事が配布されていた。その取り扱いの変化の根拠はどこあるのだろうか。子ども達になんでもかんでも焼却していくことを教えていくのだろうか。リサイクル社会ではなく,焼却社会へとさらに大きくシフトされていくことになっていくのだろうか。こうして,地球は日一日とターニングポイントのリミットを超えつつある。

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