背にマグマ | 俳句さんに似合う香水を見つけてあげる(7)


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雪の夜の背にマグマある深眠り 正木ゆう子『羽羽』


2016年に出版されたこの句集には2011年の東日本大震災と原発事故を詠みこんだ句が収録されています。

予震予震本震余震余震予震

頻繁に揺れが続いた当時の状況は、ほんとうにこの通りだったことだろう。「だったことだろう」と書くのは西日本に住んでいる自分はニュース速報とTwitterに書き込まれる「揺れた」「揺れてる」という言葉でしかそれを感じたことがないから。【参考】御中虫『関揺れる』(邑書林、2012年)
予震と余震は音が同じであるように体感としては同じ揺れであり、小さな揺れのあとには大きく本震がくるのではないかという恐怖がある。

掘炬燵あるはずもなき仮設なり

元の家にはあった設備も仮設住宅にはない。プレハブに堀炬燵などあるはずもない。最低限必要なものですら手に入るとは限らない生活なのだから。季語として置かれた「掘炬燵」は失われた日常の象徴だ。

真炎天原子炉に火も苦しむか

夏の暑さに冷却機能を失った原子炉内部へと思いを馳せる。事故後、冷温停止状態を目指す復旧作業が続いている状況での句だろう。
(とはいえこの句自体は事故前の起きていない原子力発電所を詠んだ句としても成立する普遍的な内容だと思う。)

こういった被災地での句と、さらには母の死に関する句が収録された、なかなか重い句集の終盤に登場するのが

雪の夜の背にマグマある深眠り

なのです。

寒い寒い雪の夜、横たわる自分の下にはマグマがあり(実際にはマグマの熱は伝わらないのだがそれに温められているかのように)深く眠る。

その次に並んでいる句は、

この星のはらわたは鉄冬あたたか

というものだ。
想像上の地熱が心を温める双子のような二句です。

地震の原因を床暖房扱いとはなんたるタフネス!

でもこれって、人類はときに日常を破壊しときに恵みの熱ともなる鉄のはらわたの上に住むしかないという諦めであり、願わくばできるだけ暴れ回らず恩恵をたくさん与えてほしいという祈りでもあるのだろう。

すみません。この流れでほんと必要ないかもしれないんですけど、香水をおすすめしてもいいですか。香水どころじゃねえよ、という意見はごもっともなんですが。

超安眠! 嗅ぐタイプの安心毛布 – ベティベルソ EDP –

VETYVERSO EDP
ブランド:LABORATORIO OLFATTIVO

トップノート:カーネーション、ナツメグ、ビターオレンジ
ミドルノート:ベチバー、ブラックペッパー、ピンクペッパー、グレープフルーツ
ベースノート:シダーウッド、クラリセージアブソリュート、サンダルウッド、ホワイトムスク

爽やかに弾ける柑橘に顔を上げて太陽を仰ぐと、次の瞬間にはベチバーのいかにも根っこらしい大地の香りで意識を地面の下に運ばれる。
徐々にスパイシーになるのはブラックペッパー&ピンクペッパーなのかしら。ほんのり台湾の屋台(=八角 / スターアニス)っぽさも感じるんだけど。
ブランドの意図としては香りの舞台は中央アメリカのアンティル諸島(キューバやハイチからトリニダード・トバゴあたりまでをそう呼ぶらしい)。火山の裾野にひろがる森林をイメージした香りだそうです。
香りから季感を受け取るとすれば、どちらかというと夏です。冬ではないです。でも通年使いやすい香水だと思う。この香水とはノーズショップのガチャ「目覚めのリフレッシュ香水(※すでに販売期間終了)」で出会ったのですが、わたしはこれを嗅いでいると秒で眠くなってしまう。きっと柑橘類の香りが入浴剤(柚子湯)に似ているからだ。架空の湯上りのぬくもり、想像上の地熱と相性いいと思います、火山イメージの香りでもあるし。

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以下は小さい字で書いておく長い余談。

わたし個人は災害に関する句はできるだけ作ったり発表したりしないようにしている。感動を取り出すために誰かの身に現在進行形で降りかかっている災難を使いたくない。たとえば自分が当事者になっている問題に関してはあたしの不幸で勝手に泣いてないで手を貸せよ、踏んでる足をまずどけろよ、と感じずにはいられないから。
なんだろ。「絵になる不幸ですね」って言われてる感じ?

わたしは正木ゆう子さんの句がめっちゃ好きなのですが『羽羽』の中だと

雀隠れの雀よそこは気をつけて
鼻綱なき自由もあはれ爆心地
人類の先頭に立つ眸なり(※「被災した子供たち」と前書きあり)

あたりは許せるか許せないか結構ギリギリの線だと思っている。「爆心地」という言葉の使い方の是非もあろうし、人間対動物、大人対子供といった力関係を考えると「えええ……それ言っちゃうんですか……」という気持ちにならずにいられない。
正木さん自身もあとがきで、
「この時期、俳句も文章も、迷いなく口にすることの難しさを常に感じてきました。特に原発事故により十万年ものスパンでものを考えなくてはならなくなったこと、人類の子孫に負の遺産を残してしまうことなど、わが時代の責任を考えると、つい口を噤んでしまいます」
と述べておられ、葛藤が見て取れる。厳密には原発事故の前から、原子爆弾を作ったり原発をどんどん建てたりした時点で十万年スパンでの問題は始まっていたのではないかと思うのだがどうなんでしょう。原子力発電は事故を起こさなくても日々放射性廃棄物という負の遺産を生んでるんじゃなかったっけ。
災害や被災地を詠むのなら自分がそれを詠む理由とか慎重な姿勢が必要な気がしてて、わたしはそれがないからもう最初っから俳句のモチーフにはしない。もちろん、ちゃんと問題に向き合いながら寄り添うように俳句を詠んでいるひと、あるいは当事者として詠んでいるひとたちもいるだろう。
こういうのは一神教のひとたちの言葉を借りれば「神様と自分との問題」みたいなものだから、わたしは自分のルールをひとに押し付けるつもりはない。わたしの態度は問題から目をそらして逃げているだけとも言える。そしてこの論理がマジョリティ側がマイノリティの言論を封殺するために使われてはいけないとも思う。
でもさ俳句って(巧拙は別として)簡単に書けちゃう、簡単に忘れちゃう。いろんな配慮をして真摯に接していかなければいけない問題を扱う場合なかなか使いづらい形態だと思う。俳句しか書けない呪いにかかってるわけじゃないんだから、こういうときは言葉を尽くして散文にしたほうがよくない? 的なことを考えるんですよね。短詩型ってどうしても省略や詠嘆をぶち込んでうっとりしてしまうから、そこからこぼれ落ちるものが多すぎると感じる。ただ、当事者が当事者として書く場合、俳句の短さは怒りや悲しみの瞬発力との相性がいいし、文脈込みで読んでもらえるから伝わりやすい面もあるよね。
あと、もしかしたらわたし災害に関しては気をつけていても、特定の職業や病気や土地その他に関して、搾取するように書いてるかもしれない。
この余談はオチがないし全然まとまってないがぐだぐだしたまま載せておきます。