リカ、お前はあきらめろ。

猫は踏まずに
 
本多真弓(本多響乃)さんの歌集『猫は踏まずに』から好きな歌と、その感想を。

わたくしは
けふも会社へまゐります
一匹たりとも猫は踏まずに

猫を踏まないのは普通のことだ。
猫を踏まないことをなぜわざわざ言うのだろう。
このひとは猫を踏むことを考えながら通勤しているんじゃないかしら。
猫を踏んだときの「フギャッ!」という激しいリアクション。
「一匹たりとも」と強調されることによって、
目に入る猫をかたっぱしから踏んでしまうことも
彼女の頭の中にはあるんだろうなという気がする。
「フギャッ!」「フギャッ!」「フギャッ!」
たいへんな騒ぎになるにちがいない。
しかしこのひとはそれを頭の中だけにとどめて
淡々と日常的な仕事をこなすのである。
こんなひとは絶対に怒らせたくない。

半年の通勤定期ちやんと買ふ
わたくしはいつも長女ですから

この歌も、当たり前のことをわざわざ言っている。
敢えて言うのは、「ちやんと買」わないという選択肢が存在するからだ。
区間や通勤手段を偽って申請すれば、
交通費として手に入れたお金をお小遣いにしてしまうこともできるのだろう。
だけどこのひとは「ちやんと買ふ」と言う。
したら得することはわかっていて、
けれど、してはいけないことになっているから、それをしない。
その理由を「わたくしはいつも長女」だからだと言う。
弟妹に規範を示せるように、長女としていつも親の期待通りに行動してきた。
おとなになってもそのことをひきずってしまう不器用さが、
「わたくし」「長女ですから」という真面目そうな口調にも現れている。
ただ、油断してはならない。
このひとは、悪事の可能性も、ちゃんと念頭に置いているのだ。

リカへ
 
 
ありがたう
教へてくれて
ケンちゃんの
キスの仕方は知つてゐたけど

最後の一行が衝撃的で、
急に人間関係が明らかになりドラマが生まれる。
リカさんはこのひとに対して
最近付き合いはじめたケンちゃんのキスの仕方などを
楽しそうに話したのだろう。
しかし、このひとは、
すでにケンちゃんのキスの仕方を知っている。
ケンちゃんと、キスしたことがあるから。
そして、ケンちゃんのことを憎からず思っているのだ。
この歌、とくに後ろの二行は、
リカに対して話しかけた言葉や
送られたメールではなくて、
心の中の独白のように思える。

悪いことは言わない。
逃げろ、リカさん。
ケンちゃんのことはあきらめた方が身のためだ。

このひとは、敵に回してはいけないひとだ。