カテゴリー別アーカイブ: 未完箱

MSSDK. 4/4

 
 雨の音で目を覚ました。台風が去ってから晴れが続いていたのに。
 はせくんは私の背中にぴったりと身を寄せて眠っていた。密着しているはせくんをタオルケットごと引き剥がして起き上がる。冷蔵庫を開けて、牛乳を出した。低脂肪乳特有の水っぽさが、夜中に飲むのには丁度いい。そもそも濃い牛乳はあまり好きじゃない。冷蔵庫の前にぺたんと座ってみる。キッチンが好きで、冷蔵庫に寄り添って眠る女の子の小説があったっけ。あれを書いた小説家の父親は学者だ。大抵の女性作家は文化人の娘。私の父は肉体労働者で、私は三流私立女子大学の落ちこぼれだ。高校まではそこそこの成績だったんだけど、大学に入って急に勉強が苦手になった。論文の類いが書けない。本が好きという理由だけで国文学科に入ってしまったのがそもそも間違いだったのかもしれない。三年のときに初めて演習の授業に出て本気で後悔した。教壇では四年の先輩が、芥川龍之介の「鼻」の道具立てについて、夕焼けは終焉を表すが五重塔の屋根の九輪はめでたさの象徴であるから云々と語っていた。それならば、と思って手を上げて「単純に考えるなら鼻は男性器の象徴だと思いますが、先輩はどう考えられますか。老僧が稚児に鼻を踏ませる様子は衆道を連想させますが」と言った。先輩は困った顔をして教授の方を見た。薬師丸ひろ子似の女性教授は、「面白い読み方ですが、先輩の発表は真面目に聞きましょうね」とかわいらしく笑った。後期に発表の順番が回ってきたのだが、私は何もできなくて、授業に穴を空け、単位は諦めた。 

MSSDK. 3/4

 
「今度の詩、ちょっぴりおセンチ?」
ディスプレイを覗き込んではせくんが言った。柔らかい巻き毛が耳に触れてかゆい。私は毛束をはらった手をそのまま伸ばしてはせくんの頭をぼりぼり掻きむしる。
「うあぁー。ごめんなさい!」
詩とは限らないでしょ。卒論かもしれないじゃん。小説書き始めたのかもしれないし。っていうかなんだよ「おセンチ」って。何時代の言葉よ。たった一行で何がわかるんだ。ああ、はせくんは怖い。
 私ははせくんの博多人形なみに滑らかなほっぺたを両手で挟んで、唇を吸った。吸い込んだまま顔を離す。ぢゅばっと音がしてはせくんの唇はほんのすこしタラコになった。
「……暁海ちゃん、ご機嫌ななめ?」
私は首を振る。PCをシャットダウンして、床に仰向けになった。
「おれ、夕方から仕事あるから、もうちょっとしたら出るね」
はせくんはクローゼットがわりの押入れを開けてスーツに着替える。ビジネスソックスはいてYシャツ着て、まだスラックスははいてなくてトランクスの下に毛ずねがにゅっと伸びてる姿が最高にかわいい。私のご機嫌はななめじゃなくて真横なんだ。ばか。窓辺に吊るされた雫型のビーズ飾りが、カーペットに一粒の虹を落とす。
 
 揺れる巻き毛の残像をたっぷりと見送ってから、はせくんの脱いだ物を洗濯かごに投げ込み、ラジオをつけた。地元広告会社の社員たちがひたすら世間話をする番組が始まって、一昨年卒業した先輩が、男性社員たちのトークに舌足らずな合いの手を入れている。充電器の上で携帯電話が震えた。
「高遠です。この間はどうも」
こちらこそ、いつもごちそうになってしまってすいません、それから傘もありがとうございました、そう言ったら、「傘?」と聞き返された。素で覚えてないのだろうか。気まずくなりそうなので適当にお茶を濁した。高遠さんは新しい雑誌のタイトルと締切を告げた。メンバーもだいたい決まったそうで、十人程の若手詩人の中には私の知っている名前もいくつかあった。

MSSDK. 2/4

 
「今日はね、暁海さんをオルグしようと思って」
高遠氏は机の上に出してあった「黒田喜夫詩集」の表紙を撫でながら言った。
「ざやくは、まあたかだか三十年ぐらいのものだけど、詩の同人誌としては伝統のある雑誌なんですよね。編集を任せていただいて、ある程度は自分のやりたいこともやらせてもらえるんだけど、本気で変な物を作ろうとしたときに、つい先輩方に遠慮しちゃってね」
注文を取りに来たウエイトレスに、舌を噛みそうな名前のドイツビールを注文して、勝手に「二人分」と付け加え、高遠氏は続ける。
「で。自分で雑誌を立ち上げることにしたんです。一応文芸誌ということで、詩だけじゃなく小説と評論と……描き手があれば漫画もいい」
この流れから行くと「よかったら暁海さんも書いてくれません?」となるのだろうし、結果的にはそう言われたのだけれど、「よかったら」にたどり着くまでに地元詩壇の重鎮たちの近況と有名な哲学者の講演が来週あるよというお知らせとなんとかラッキーホールというバンドが面白いという話をして、私の方からは俳句に転向しようかと思っているという相談とロラン=バルトを読んだら頭がよくなるような気がするという妄想と誰も合コンに誘ってくれないという愚痴を聞いてもらい、お互いに二回ずつトイレに立って閉店時間が近づいたあたりで「よかったら」が来た。謹んでお受けします、と頭を下げた。

MSSDK. 1/4

 
 
 薄い膜の中にたまった液体。練乳の色。あんかけのとろみ。まだほんのりと温かい。生きてるんだこの中で。耳を澄ましたら鳴き声が聞こえる。ちち、りりり、ひーよひーよひーよ、ぴりりりりりりりりり……。
「もう捨ててもらえませんかね?」
布団から大きくはみ出して畳に頬をつけたまま、マイクを向けられた力士のようなかすれ声で、はせくんは言った。せっかく私が搾ったのに捨てるなんてかわいそう。快楽の滓だなんてとても思えないし、世の通説となっている人間の原料だなんていう迷信も信じることはできない。これはすでに完成された命であり、鑑賞し愛玩すべきペットなんだと思う。だってほら、耳につけたらかすかな声で……。
「鳴きません。鳴いてるのはスズムシとかキリギリスとかコオロギでしょ。捨てないと怒るよ」
 私はゴムの尖端の液だまりに別れのキスを捧げたのち、根元をくりっと玉結びして屑入れの底に落とした。夢がないなあ。
 爪先でラジオのスイッチをONに。コミュニティFMのパーソナリティが、まったく危機感のないバリトンで台風の進路を知らせている。